先祖の霊を慰めるための「精霊踊り(盆踊り)」がその起源と一節に言われる阿波おどりは、時代の移り変わりと共にその姿を変えてきました。
庶民の中から生まれ、庶民と共に歩み続けた阿波おどり。
明治~大正~昭和~平成と、その100年の歴史を振り返ります。
明治時代の阿波おどりは、一体どんな踊りだったのでしょうか?
実は、今の踊りとはかなり異なっていました。
長かった藩政時代が幕を下ろし、明治という新しい時代が始まりました。
徳島でも鉄道が開通したり、徳島公園が完成するなど、西欧諸国の新しい文化が取り入れられました。
しかし、徳島の盆踊りは江戸時代から300年の伝統が受け継がれてきました。
その特徴は「庶民誰もが気軽に参加でき、自由に踊れる」ことでした。
明治16年の新聞には、その年行われた阿波おどりの様子が掲載されています。
「時鐘が午夜を報ずるとともに、ソラこそ12時だ、踊れ踊れと勢い込んで、チャカチャカドンドン、ピューピューグワラグワラ。人の安眠を害するも、明日の仕事がペケになるも一切かまいなく、新町、内町は申すにおよばず大岡、常三島の場末までも右往左往と行き違い、明け方ごろまで踊りいたる」
当時の盆踊りは三日間、昼夜を問わずぶっ通しで踊り明かしていました。
明治時代、日本は日清・日露戦争を戦い、勝利します。
国内では各地で勝利を祝う催しが行われました。
徳島では「祝勝阿波おどり」が開かれ、誰もが戦勝ムードに酔いしれました。
戦争を期に、この頃からお盆以外でも景気づけやお祝いの度ごとに阿波おどりは開催されるようになりました。
大正時代に入ると、庶民の暮らしは豊かになり、様々な文化や思想が開花しました。
阿波おどりも時代を反映するかのように、自由でユニークなスタイルのものが多くみられるようになりました。
伴奏に琵琶を使っています。
こちらは鼓と三味線です。
大正4年、天皇の即位を記念した踊りの様子。
大正時代、阿波おどりをリードしていたのは、なんといっても花柳界、富町や内町の芸者たちでした。
優雅で風情のある芸者の踊りをひとめ見ようと、県内外から多くの見物人が集まりました。
大正時代から昭和にかけて 、阿波おどりは既に日本有数の盆踊りとして人気を集めていました。
しかし、盛況に沸く阿波おどりも、この後しばらくして長い沈黙を強いられることになります。
戦争です。
昭和12年、満州で盧溝橋事件(ろこうきょう)事件が勃発。
阿波おどりはこの年から中止されました。
街にあふれた「ぞめき」の音色は、銃声にかき消されてしまいました。
阿波おどり中止から5年経った昭和16年4月、阿波おどりが復活しました。
東宝映画「阿波の踊り子」のロケが徳島市内で行われたのです。
5年ぶりの阿波おどりとあって、踊り子のエキストラには芸者たちから希望者が殺到しました。
芸者は花柳界の誇りをかけ、猛練習に励みました。
暗い戦時体制のもと、阿波おどりは徳島の誰もが待ち焦がれていたものだったのです。
同じ年の昭和16年12月、日本はアメリカとイギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。
日本軍は序盤戦果をあげ、翌昭和17年には阿波おどりが再開されたものの、その後戦況が悪化するや、阿波おどりはたちまち中止となりました。
そして昭和20年、終戦・・・
徳島の街は一夜にして灰と化し、人々は最愛の肉親や兄弟、妻や子を失いました。
住む家も食べる物もなく、誰もが生きることに精一杯でした。
昭和22年8月、徳島の焼け跡にぞめきのリズムが響き渡りました。
あり合わせのみすぼらしい衣装、着物がない踊り子は裸の体に鍋の炭を塗って踊りました。
しかし、どの顔にも平和な時代を迎えた喜びが満ち溢れていました。
(現在の娯茶平)
昭和24年、戦災からの復興を願う阿波おどりが徳島駅前広場で開催されました。
にぎやかで躍動感いっぱいの阿波おどりは徳島の復興のシンボルとして、人々の圧倒的な支持を受けました。
市内では新しい建物や道路が次々と建設され、戦災の爪痕は次第に消えて、誰もが復興を成し遂げたことを確信しました。
下は昭和26年、徳島駅前の元町ロータリーで行われた阿波おどりの画像です。
ロータリーの中央部分に踊りを見物する人たちがいます。
進駐軍の将校たちです。
この見物席は進駐軍のために作られた特別席でした。
昭和30年代に入ると、日本は高度経済成長の波に乗り、めざましい発展を遂げました。
誰もが平和と豊かさを噛みしめた時代でした。
徳島市内には観光客目当てのみやげもの店が軒を連ね、連日多くの人で賑わいました。
下の画像は昭和34年、市役所前の演舞場です。
この時代の女踊りは、現在とかなり違っています。
両手を肩の高さで上下させ、指先もだらりと下を向いています。
下は昭和40年、平和連の女踊りです。
昭和34年の踊りと比べて、両腕が少し上がっているのがわかります。
この後、現在のような両腕を高く突き上げる美しいフォームへと変化していきました。
左が昭和34年、右が現在の踊りです。(まんじ連)
このように変化を遂げていったのには理由があります。
それは、年々大型化していった「桟敷(さじき)」の存在です。
桟敷の出現で、観客席から客の目線が上から下へ見下ろす形となり、それにともなって踊り子の手もだんだんと上へ上がり、見てくれのいい踊りに変わっていきました。
「参加する踊りから見せる踊り」へ変わっていったのです。
見られることを計算した阿波おどりは、工夫を凝らした演出や、ユニークな踊り手たちが観客の目を楽しませました。
さらには、大阪万国博覧会をはじめとする各地の博覧会に出演して、積極的にPR活動を行いました。
1967年には初めて海外へ進出し、ハワイのホノルルで乱舞を披露しました。
この様子は衛星中継で全国に放送され、阿波おどりは日本はもとより、海外からもひっぱりだこの人気となりました。
踊りと同時に、連の編成も変わっていきました。
戦前には20人程度だった連は、戦後次第に大型化し、100人規模に膨れ上がりました。
鳴り物は三味線などの弦楽器から、鐘や太鼓といった打楽器中心の編成となりました。
「大音量・大編成・そして一糸乱れぬ組織力」これが現在の阿波おどりの主流となりました。
時代と共にその姿を変えていった阿波おどり。
しかし、阿波おどりはいつも庶民と共にありました。
人々が感じる喜びや悲しみ、さらには憎しみや怒りまでもがその原動力となり、阿波おどりは今に生きています。
阿波おどりの100年。
それは時代をたくましく生きた庶民の歴史です。
(参考資料:徳島の20世紀 阿波おどりの100年)