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阿波おどりの起源

蜂須賀至鎮

阿波おどりは、江戸時代の天正14年(1586年)阿波の戦国武将・蜂須賀至鎮(はちすか・よししげ)が徳島城を築いたとき、場内で祝杯を重ねた職人や町の人々が「めでたや・めでたや」と踊り狂ったのが始まりとされています。
いわゆる「蜂須賀入城起源説」です。

しかし歴史家の多くは、まだ戦国の血生臭さが漂う天正年間(1573〜1592)に、機密の多い城内が民衆に開放され、そこに乱舞の渦ができるなどありえないと唱え、この説を否定しています。

では、阿波おどりは一体いつ頃、どのように始まったのでしょうか?

推理をめぐらせようにも、手がかりになる資料や文献があまりに少なく、実際のところ真実は闇の彼方です。
それは阿波おどりが常に、歴史を記録する側とは無縁の人々によって支えられてきたから、といえるかもしれません。
阿波おどりの起源がわからないにしても、築城以後急速に広がり、庶民が熱を入れたのは確かなようです。

江戸時代の阿波踊り

江戸時代の後期になると、阿波藩が武士の阿波おどりへの参加を厳しく取り締まりました。
藍商の「加登屋日記」によると、1841年(天保12年)には、藩の中老で千石取りの蜂須賀一角が民衆の中で踊っいるところを見つかり、座敷牢に幽閉されたと記されています。
阿波藩は民衆が阿波おどりに熱を入れることに対し、2つのことを恐れていたと推測されます。

江戸時代の阿波踊り

1つは、阿波おどり期間中の興奮状態にある民衆が、日ごろの不満を爆発させて武士と衝突すること。
もう1つは、武士と一緒に踊って仲良くなった民衆が「武士も同じ人間だ」と知り、武士支配の体制が崩れることです。
阿波おどりは支配者の支持を受けることができませんでしたが、逆説的にいえば、だからこそ庶民の支持を得られたのかも知れません。

だれでも踊れる阿波おどり

江戸から明治にかけて、莫大な資産を築いた阿波の藍商人は、徳島の花柳界で型破りの豪遊をし、当時、芸者の間で「お座敷芸」として踊られていた阿波おどりをより洗練されたものに育て上げたといいます。
当時、富田町の芸者は500人以上。
大阪や東京から藍を買い付けに来た取引先の客を、藍商人が毎晩のように接待していました。
この時代、宴会には阿波おどりが欠かせなかったようで、芸者に手ほどきを受けた客たちも身ぶり手ぶりで踊り出し、とても評判が良かったといいます。
芸者にとっては、藍商人は「上客」です。
彼らに気に入られるような「芸達者」になることが1つのステータスでした。
一流と呼ばれるように三味線や踊り、歌などの芸を賢明に磨きました。
さらに、全国の花街でもその財力に物を言わせ、贅の限りを尽くした藍商人は、各地の伝統芸能を徳島に持ち込みました。

お鯉さん

はやし唄「よしこの」の第一人者・多田小餘綾(ただ こゆるぎ)さんこと通称・お鯉さん(2008年4月6日亡)も生前「よしこのの源流は潮来節と聞いている。これに全国各地の歌が加わり、徳島のよしこのになったのではないか。その橋渡しは藍商人しかいない」と話しています。
藍商人の豪遊につられ、他の商取引でも阿波おどりが接待に使われるようになります。
一般の商家では「芸者をあげて」とはいかず、子どもや手伝いにくる女性に三味線などの鳴り物を習わせ、踊らせました。
この風習が庶民の間にも根付き「だれでも踊れる阿波おどり」の土台が形成されていったといわれています。
( 参考文献:朝日新聞徳島市局「阿波おどりの世界」)

 

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